「書くこと」

 今日は出張で、市内の同職の方々と一緒に「書くこと」について考える機会がありました。

 

 書けない人が書けるようになるためにはどうすればいいのか、というお話です。他の方々と話をしてみて、僕の感じたことをまとめてみます。

 実際、「書けない」ことでつまずきを感じている子は多いです。原稿用紙を渡すと固まってしまうことも珍しくありません。一行目から思い浮かばない。鉛筆が進まない。ずっと紙とにらめっこしています。

 しかしよくよく見ていくと、そういう子にもいくつかのパターンが見受けられます。

 

①話せるけど、書けない。

 「こんな感じのことを書きたいんですけど、文章が思い浮かびません」という子。とても面白いアイデアを持っているけれど、それをどう「文章」で表せばいいのかがわからない子。喋らせるととても上手だったりします。

 ただ、こういう子たちの文章の特徴として、「文のねじれ」があげられます。主述が対応していなかったり、「てにをは」がめちゃくちゃだったりします。また、すべて話し言葉で書かれているというケースも多々あります。

 なぜこのような事態が起こってしまうのか。というのを考える前に、そもそもなぜ我々は(つまりこのような仕事をしている人たちは、もしくは一般的な大人たちは)そのような文章のエラーを起こさないのかというところについて考えなくてはならないと思います。

 それはずばり、参照すべきモデルを豊富に持っているからではないでしょうか。もちろん脳内に、です。小さいころから繰り返し蓄積されていった「活字との出会いの記憶」の集大成として、我々はまさにこのような文章表現技法を獲得している、というのが自然な発想だと思います。何事も最初は模倣から始まります。そして無意識に行われた模倣すべきモデルの取捨選択の結果、今の「文体」に落ち着いていると考えられます。読書量の多さと文章表現の巧みさが単純な相関関係にないのは、この「取捨選択」がいかにスムーズに行われているかどうかに理由があると思います。

 逆に言えば、文章のエラーが多発してしまったり、話せるけど書けない子たちは、「参照すべきモデルが内側に蓄積されていない」と考えられないでしょうか。「話す」という行為は、「聞く」ことが比較的受け身な動作のため、積極的に追い求めなくても勝手に身につき、勝手にモデルが蓄積されていきます。テレビを流し見しているだけでも、「話」の上手な人たちがたくさん出てくる訳ですから。しかし「読む」という行為は、非常に能動的な行為です。自ら求めないと活字は(特に主述まできちんと整備された美しい文章は)目に飛び込んできません。だから積極的に追い求めないとモデルが内側に蓄積されていかないのです。

 

 

そもそも書きたいことがない

 伝えたいことがそもそもない。伝えたいことがないのに書くも何もない。

 これは「聞く」という受動的行為すらあまり好まない子によく見受けられる状態です。

 

 パターンはまだまだありますが、とりあえず主要なふたつのみを取り上げて見ました。原因はどちらも「インプットの少なさ」にあります。

 僕は学校教育の根幹はやはりインプットだと思っています。学校とは「蓄える」場所のはずなのです。学校がアウトプットの場になってしまうと、子供たちは放課後体験や塾での授業のみがインプットの場となってしまう。個々人のライフスタイルや家庭環境(主に経済的環境)に依存した「蓄え」を、学校で披露する。なんだかおかしい気がしてしまいます。

 

 しかし今、学校で子供たちは表現者になることを求められています。すでに廃れつつあるアクティブラーニングという言葉を、もしくは「主体的学び」という言葉を、誤った解釈で広げてしまっている気がします。

 まずは参照すべきモデルと出会わせなくてはならない。

 材料を用意しなくてはならない。

 本来学校とは、国語の授業とは、そういう場ではなかったでしょうか。

 

 一番いいのは僕がモデルになり、僕が材料になれることなんでしょうけど。

 

 

 他にも「SNSと書くこと」とかいろいろあったんですが、それはまた別の機会に。